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民主主義の歩み(2)中世における民主主義の復活

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お久しぶりです。今回は『民主主義とは何か』(著者 宇野重規)の2回目ということで今回は中世における民主主義と言うことで書いていきます。

 

イギリス編

 中世における民主主義と切っても切れない関係にあるのが議会制です。当時のイギリスは国の権力を監視するために身分制議会が整備されていました。そして国と議会のバランスによって安定している政治体制を元にイギリスは発展していくことになります。イギリスの民主主義は、先に議会の制度を整備してから政治参加の枠を広げてくという形で発展して行きました。

 

アメリカ編

 

 一方アメリカは当時英国の統治下にあった訳ですが、1776年に独立を宣言します。そしてその数年後に世界最古の成分憲法が制定されました。しかし合衆国憲法には民主主義的ではないような内容も含まれていたのも事実です。下院議員の定数の算定にあたっては、黒人奴隷一人につき5分の3人として数えるという『5分の3条項』がありました。この条項が削除されることになるのは南北戦争後になってのことです。合衆国憲法の作成に関わった人々は民主主義の事をどう見ていたのでしょうか。彼らによれば、純粋な民主主義(直接民主主義)は人々の直接的な協力や団結を生み出しますが、多数派によって少数派が犠牲にされることがあります。古代のアテナイがそうであったように、激しい党派争いも起こりがちです。これに対して共和制(間接民主主義)は選ばれた人々が政府を運営していくことになります。選ばれた人々は公共の真の利益を理解していることでしょう。それに加え、間接民主主義ならば、アメリカのような規模の大国でも実現可能です。このように彼らが理想としたのは有能な少数の人々による共和政でした。しかし、民衆レベルでは民主主義の力が活かされている所も多かったのです。アメリカ国民達は自分達の地域の問題をよく理解しており、政治的知識も目を見張るものがありました。民主主義の重要な点は『自治』にあります。アメリカの人々は自分達の地域の問題に強い関心があり、当時の政府の権限が弱かったのもあり自分達で諸問題を解決するという強い意志がありました。

 

フランス編

 

 1789年7月14日のパリにあるバスティーユ監獄襲撃でフランス革命は始まりました。そもそもの緊張の原因は三部会と呼ばれる身分制議会にありました。欧州でも屈指の中央集権国家であるフランスではこの三部会が開かられることはありませんでした。財政赤字に苦しむ王権が三部会を開くことを決意し、ようやく開かれたのは約170年ぶりとなる1789年のことです。三部会の中の第三身分(平民)は進まない議論や不公平に痺れを切らし、三部会から独立して自分達で新しい議会を開くに至りました。三部会が開かれる以前から農民や都市の貧困層は高い税金や、特権階級との格差に不満を持っていました。初期の革命は貴族も加わり立憲主義的な王政を目指していました。しかし革命が行き詰まっていく中で外国からの干渉も増えていき、どんどん革命は急進的になって行きました。最終的には国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを処刑して王権を廃止するまでに至ったのは想定外のことだったのです。フランスという国のアイデンティティーである王権を廃して新しい共和国を作るにあたって体制の位置付けを独自に求められました。そこで『人間の平等』という抽象的な原理に依拠することになったのです。その後政治的に安定しない時期が続きましたが、残された『人間の平等』という理念はその後の民主主義の発展に大きく寄与することとなりました。

 

 中世、近代の民主主義は議会制と共に発展してきました。議会制と民主主義はそれぞれ別のルーツを持ちますが、18世紀のフランス革命アメリカ独立の影響で議会制民主主義が主流になって行きます。当時の人民主権論のポイントとして人民が主権者として一般意志に基づいて法律を作り、同じ人民がこれに従うということにありました。誰もが法の下には平等ということが大切だったのです。そう考えると紀元前の頃から律令という概念を作って徹底的に運用してきた秦って凄かったんだなって思います。

 前回の記事でも話しましたが、議会制民主主義において大事なのはいかに議会を民主的にするかです。その中で特に大きな役割を担う選挙ですが、初期の議会制民主主義においては今ほど平等ではありませんでした。フランスでも1792年に男子普通選挙が実施されましたが、1795年には廃止されてしまい制限選挙になりました。当時は能動的市民と受動的市民の二つに分けられていて、能動的市民にだけ選挙権がありました。能動的か否かを区別するのは、政治に関する知識や関心、判断力の有無にありました。しかし実質的には納税額で区別されており、フランス革命を推進してきた貧しい農民や都市の市民は選挙から排除されていました。女性に関しても夫に従属した存在であり自律的判断力を持たないとされていました。

 こういった制限選挙から普通選挙に移っていくのは19世紀になってからのことです。ここで大きな役割を果たしたのは、産業革命の中で力をつけていった労働者階級による参政権獲得の運動でした。最終的に男女の平等な普通選挙が実現したのは1928年のことです。