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民主主義の歩み(1)古代における民主主義の誕生

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お久しぶりです。

今回は『民主主義とは何か』(著者 宇野重規)を読んだのでまとめというか感想を書いていきます。

多分全部一つにまとめると長くなるので3回ぐらいに分けて投稿すると思います。

 

 民主主義とは何かと聞かれて明確な答えを返せる人は少ないと思います。ある人は多数決で物事を決めるシステムと言うかもしれないし、またある人は国民主権を達成するための政治的な制度の事だと言うかもしれない。民主主義が公正な選挙を有している政治制度という意見も間違いではないし、全ての人が平等であるべきという思想もまた民主主義と言えるという意見もあります。

では民主主義の本質とはなんだろうかという事を古代、近代、現代の歴史から見つけていきたいと思います。今回は古代における民主主義の誕生ということで書いていきます。

 

 民主主義という言葉は古代ギリシアで生まれました。一番有名なのはアテナイにおける民会ではないでしょうか。一般の人々が戦争や外交、経済などを含む政策について議論し合い、演説して議題を採決していました。しかし、当時の民主主義はとても平等と言えないような制度で運営されていたのも事実です。参加資格を持っていたのはアテナイ市民の男性だけで、女性や奴隷に参加する権利は与えられていませんでした。

 一般的に民主主義という言葉はアテナイで生まれたと言われています。しかし、自分達の共同体の自治について議論し合って方針を決める集会は古代ギリシアより前にもあったとも言われています。ではなぜ古代ギリシアが民主主義の始まりだと言われているのでしょうか。それは古代ギリシアにおいてそういった民主主義的な活動が極めて徹底的に行われていたからだと言われています。例えば、アテナイにおいてはほぼ全ての公職は抽選で選ばれていました。全ての市民が平等に共同体を運営していくチャンスがあったのです。それに加え、裁判においても被告、原告共に平等な議論の場を与えられており、それをふまえて市民が投票にて判決を決めるというものでした。何よりアテナイ市民達は自分達の統治システムに誇りを持っていました。

 アテナイにおける政治の『参加』について話していきましたが、『責任』についても話しておく必要があります。アテナイでは公的権力を追求、弾劾する仕組みが整備されていました。自分の任期後には任期中に行ったことについて厳しい審査が待っていて、会計報告もありました。ここで公金を横領などなく正しく運用出来た事を示さないと裁判にかけられることになります。会計業務以外も上記のような審査がありました。もし有罪となれば、罰金や財産没収、死刑などの厳しい罪が待っていました。そして現代の弾劾裁判の様なものもあり、どんなに強い権力を持っていても、市民にその責任を追求され裁判にかけられることもあったのです。

 しかし、アテナイでの民主主義にも問題はありました。いわゆる少数派の迫害やポピュリズムなどです。いつだって多数の判断が正しいとは限らないのです。その後のシチリアやスパルタとの戦争敗北などの影響で貴族政治や恐怖政治が復活するなどアテナイの民主制は混乱を極めます。しかしそういった政治体制に対する民衆の反発により、再び民主制は復活することになります。そして現代の違憲立法審査権のような仕組みも制定されるなど改良も加えられていて、アテナイの人々にとって民主主義がいかに大事なものだったかわかります。そんなアテナイの民主主義もマケドニアという大国に敗北し終わりを迎えることになります。

 大分省きましたが以上が古代ギリシアにおける民主主義の誕生です。もっと詳しく知りたくなったらこの本を買って読んでみることをお勧めします。

 

 古代の民主主義と現代の民主主義の一番大きな違いは、間接制か直接制かの違いだと思います。現代では民主主義と言えば間接民主主義ですが、当時のアテナイの市民からすれば選挙による間接民主主義は少数の選ばれた人々が行うという意味では貴族政治と同じように捉えられていました。全ての人々の意見を反映させて組織を運営していくのが理想なのは間違いないですが、組織の規模が大きくなるにつれて全員の意思を反映させるのは難しくなります。

 そこで登場するのが選挙による間接民主主義です。間接民主主義では選挙で正しく民意を反映できたかが重要になります。現在では一人一票による公平な選挙が主流ですが、選挙にはボルダルールのような他の集計ルールも存在します。ボルダルールとは一位に三点、二位に二点、三位に一点のように配点するルールです。このルールでは票割れを防ぐことができ、より広く支持されている人が選ばれます。どちらのルールがより民主的かというところは議論の余地がありますが、こういった制度の変更も含めて、改めて今の間接民主主義が本当に民主主義的なのかについて考える必要があると思います。