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日本の統治構造(6)日本政治における与党の役割

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お久しぶりです。今回は『日本の統治構造』(著 飯尾潤)の6回目ということで日本政治における与党の役割について書いていきます。

 

日本における与党といえば、長らく総理大臣を輩出し続けている自民党といえば問題ない時期が多かった。最近のように連立内閣が続くと連立与党と言う場合もある。つまり、与党とは政権を担っている政党ということになる。しかし、この言葉にはある問題点があったのです。

 日本における『与野党』を世界ではどういったふうに訳すのでしょうか。例えばイギリスの場合は、GovermentとOppositionという。これを字義通りに訳せば『政権党』と『反対党』になる。総選挙で勝利した政党が政権を担うので、それを政権党というのは分かりやすいでしょう。他のヨーロッパ諸国では議会における多数派、少数派という区別で呼ばれる場合が多いです。アメリカでも議会における多数派、少数派というふうに分けられていますが、上下院で多数派が違うことも多いので通常は『共和党』や『民主党』といった固有名詞が使われます。アメリカのように大統領と議会それぞれが国民のよって選ばれる二元代表制では、必ずしも議会の多数派が政権を担うわけではなく、大統領が必ずしも議会で有力な政党の代表者ではないことを表しています。

 日本の場合、一般的には与党と政権党は同義のように思われています。ところが『政府、与党連絡会議』というものが存在します。これは、文字通り明確に与党側と政府側が連絡を行うための会合であり、両者を分けて考えるものです。政府とは政権のことであり、それを与党と分離して考えるのは不自然です。与党の『与』は『与る』という意味を持ちます。戦後の日本憲法において、政権党と同じような意味付けがされましたが、元々『政権に与る党』という意味を持っていたのです。したがって『与党』は政権そのものではないものの、極めて近い関係にある政党という意味になります。

 

 こうした与党の特徴として挙げられるのが党本部です。自民党の国会議員にとっては、党本部における会合がその活動の中心になっていることが多いと言われています。国会審議はそのほとんどが形式的なものが多く、国会議員にとっては魅力的に映りません。それに対して、自民党本部で行われる会合では政策の内容について意見できるとともに、省庁や他の議員との利害調整など様々な政治活動の舞台になっています。このように、日本の政治の特徴は多くの活動が党本部で行われていて、自民党ではほとんどの立法活動を党本部が担っています。

 他の国々でも政党によっては大規模の党本部を持っていることはあるが、これほど党本部での政策審議が重要な意味を持っている国は珍しいでしょう。通常の議院内閣制では、政権党は政府機構や官僚を使って政策立案、実施を行うことができます。選挙における公約作成などを除けば政権党における党本部での政策審議機能などは不要なはずです。その意味では政党本部に国会議員が常に集まる日本は異例です。これまで述べてきたように、現在の日本は『官僚内閣制』であるために、与党議員による政府への統制が十分ではありません。それを補うために、彼らは党本部に機能を集中させ、内閣の代替としながら官僚制を統制しようとしているのです。

 この自民党において与党政策活動の中心になっているのが、政務調査会(政調)です。政調は総会である政調審議会(政審)と部会、調査会からなっています。そのうち部会は、農林部会や防衛部会など各省庁ごとに構成されていて、関連省庁の政策を扱っています。こうした部会は、所属議員は決まっているものの課題応じて自民党の議員が自由に出入りできます。それに対して調査会は、特別の課題に応じて設置され、ある特定の調査会を基盤に活動している議員も存在していて、分野によっては調査会の方が重要な意味を持つ場合もあります。ただ、手続き上は、部会が正式な期間であるため、部会の議を経ることは不可欠です。そしてこの政調の総会にあたるのが政審であり、成長の意思決定はここで行われます。この他にも党務全般についての意思決定を行うための総務会があり、自民党の国会議員を拘束するためには総務会決定が必要なことから、自民党の意思決定に関する最後の関門として機能しています。

 

 ここで重要になってくるのが、過去に自民党が派閥と人事システムが制度化されたことです。派閥は自民党結成以来、自民党政治とは切っても切れない関係にありましたが、1980年以降に大きな変化を迎えました。従来の派閥は首相を目指す政治家が個人で作り上げ、維持するのが普通でしたが、それ以降は所属の派閥が固定化することになったのです。つまり、派閥のトップが代替わりしてもほとんどの所属議員はその派閥に残るようになったのです。こうした派閥の制度化は『総主流派体制』の成立とともに深まりました。80年に起きた現職首相の急死の影響で、派閥のトップでもなく過去に総裁選挙に出た経験もない政治家が首相に抜擢されました。その際、挙党一致ということで主流派や反主流派といった区別無く、全ての派閥の規模に応じて閣僚を出す総主流派体制を取り、これが派閥の制度化や派閥同士の対立争いを弱めていきました。政策的にも派閥によって割拠性が出ていた自民党は、派閥の制度化によって統一を保てるようになりました。

 一方で自民党内の人事経路も固まってきます。創設初期においては、官僚出身者が選挙を経ずに入閣したり、官僚経験をもとに閣僚に抜擢される例は少なくありませんでした。しかし政権を維持する期間が長くなると、党内に当選回数とともに大臣になることへの期待が高まってきます。総主流派体制が成立すると、規模に応じて各派閥に一定の閣僚枠が振り分けられるようになります。そこに一定の客観的基準が必要になり、そこで当選回数がある程度以上の議員は大体の場合において入閣できるという不文律が生まれます。自民党が政権の座に留まるためには、常に選挙に勝つ必要が出てきます。その為には、選挙で戦う自民党議員に当選への強い欲求を作り出すことが必要になってきます。そこで、選挙に勝ち続け当選回数を増やしていけば大臣になれる、という仕組みを作ることは候補者に対して強力なインセンティブを与えることになるのです。実際、官僚内閣制のもとでは誰が大臣になってもそれなりに務まるように官僚が仕事を行うのでその点でも好都合です。大臣というポストを色々な議員に分配するには、特定の議員が長い期間に渡って大臣を務めるのは好ましくありません。そこで、毎年のように内閣改造が行われ、一年程度の短い期間で大臣が交代することになります。任期間が一年ほどでは、とてもまとまった仕事を行うことは難しくなります。そこで、政府や各省庁の政策を審議する与党政策審議機関の活動がますます重要になっていくのです。このように、官僚内閣と与党は相互依存を深めながらそれぞれ発達を遂げていきました。

 与党組織はあくまで非公式な組織であって、法的主体ではありません。そこでの活動は非公開性が強く、責任の所在は明確ではありません。このように法的責任が内閣にありながら、与党期間に実質的な決定権がある場合、責任と権力の関係に隙間が広がり与党政治家による責任の追求されにくい活動が広がっていくのです。